犯罪・失業など)を科学的に考究するとともに、実際上の社会事業者には哲学・倫理・宗教は、数百名の聴衆が毎回集まった。こうした流れからできたのが文化学科で、哲学・文学・社会問題などを分野とし、得能文、和辻哲郎、出隆、柳宗悦などを講師とし、教育界の「一異彩」と言われた。もう一つの社会事業科は、感化救済科の分野で、社会の病的現象(貧困・疾病・災厄・浮浪・が必要であると、基礎と実際の両面から教育内容が構成された。そして、欧米のような教育を目指し、「社会事業に従事する実際的な人物」の養成を目的に、通学者に便利な夜間の三年制として開設された。新学科の開設もあって学生数も増加し、それは「大学令」による昇格の背景を形作った。だが、昇格運動による募金は期待したほどに伸展しなかった。一九二〇〜二一年の募金状況をみると、申し込み金額は五一三名から約一四万六九七三円と多くても、納金は遅れて実際集まった金額は約一万九六九七円と、七分の一程度にとどまった。この状況に対して、従来の校友会だけの活動に、新たに教員(教授)を加えて昇格委員会が再編成された。一九二三(大正一二)年三月、教授総会が開かれ、教授団として五万円142
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