である)二つの新学科ができませんでした。結果的に失敗に終わった組織運動を、井上円了は個人の立場で、大正から「国民道徳」の普及と銘打って、一年のうち二五〇日以上を費やし、全国各地を巡講した。六〇歳の還暦のとき、お祝いを申し込んだ校友に、「もうすこしで全国巡講が完了するので、そのときにお願いしたい」と述べていたが、一八九〇(明治二三)年からはじめた全国巡講は、中断をはさみながら二七年間続けられ、講演した日数だけで三六〇〇日以上におよんだ。その足跡を、市町村のおよそ六〇%に残した。(市町村数は二〇一三(平成二五)年度巡講では、各地の人々の要望に応じて揮毫し、その謝礼の半額を注いで、哲学堂を精神修養的な公園として完成させた(現在は中野区立哲学堂公園として存続している)。二度にわたる叙勲も辞退し、在野の一教育者として生きた一生であった。一九一九(大正八)年六月二二日、創立者井上円了の葬儀が東洋大学葬として挙行された。140
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