ショートヒストリー東洋大学
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そして、日本の場合、実績のある私立学校へ補助・支援ができやすいような政策をとるべきであると考え、高等教育のうちで、私立ができるところは私立に、できないところは官立で引き受けることこそ、「教育の民主主義」であると訴えた。この主張から四か月後の六月五日に、円了は中国・大連での講演中に倒れ、その翌日に六一歳で死去した。学校引退後、円了は全国的な社会教育に取り組んでいたが、その運動について、高嶋米峰はこう述べている。先生の社会教化的事業としては、明治三七年に修身教会というものを設立し、全国に支部を設けて修身教会網を張りめぐらせて、これによって社会教化の実績をあげ、もって護国の志を達しようと考えられたのでありまして、その計画の周到なると、その規模の雄大なるには、私ども、実に敬服もし驚嘆もしたものでありましたが、その発会式をあげるという、明治三七年二月二一日の紀元節、この日に、ロシアに対する宣戦の詔勅が降りまして、日露戦争の幕が切っておとされることになりましたために、先生のこの素晴らしい精神運動は、先生が期待しておられたほどの効果を収めること第五章 苦難の昇格運動139   

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