第一次昇格運動宗教団体など有力な基盤をもたなかった東洋大学の場合、「大学令」による昇格を果たしたが、その時期はもっとも遅れた。一九一八(大正七)年六月、第四代学長の境野哲は就任から半年後に、この問題をになわなければならなかった。境野は哲学館の三羽烏の一人と称され、明治後期の「新仏教運動」の中心者でもあり、仏教史学を専門とした。学長就任の前は朝日新聞の記者であった。境野学長は同年一二月の「大学令」の公布を受けて、翌年一月に大学構想をもつ「東洋大学基本金募集趣意書」を発表した。そのなかで、創立以来の大学のあり方を述べた。要約すれば、つぎのようなものであった。東洋学の研究は日本における古典であり、その本旨を発明し永くこれを保存し、これによって東洋独得の思想の精髄を失わないように努めるとともに、なお欧米の思想学問に照らして取捨し、進んで新東洋学の建設に資することが、わが東洋大学の理想と136
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