私学昇格のハードルこれらに公私立の専門学校の大学昇格を加えると、それは空前の高等教育機関の拡張をもたらした。一九一八(大正七)年の「大学令」から一九四五(昭和二〇)年の敗戦までに、高等学校は八校から三三校へ、専門学校は七二校から三一一校へ、大学は五校から四八校へと増加していくことになったが、東洋大学のような私立の専門学校が、「大学令」によって大学へと昇格するためには、大きな難関を乗り越えなければならなかった。 「大学令」が私立の専門学校にとって、どのようなものであったのか、そのことを端的に示していたのが、この法律の制定の基礎となった、「臨時教育会議」の答申にみられる「理由説明」であると言われている。要約すると、それはつぎのようなものであった。 「大学の設立は極めて重要なことで、もっとも鄭重なる手続きが必要であります。将来、万一に不完全なる大学を、容易に設立できるようなことがないように、設立については文部大臣においてとくに勅裁(天皇の裁決)を経る」ということや、「さらに大学の経営は多額の経費を必要としますので、したがってその基礎がもっとも確実なるものでなけれ132
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