帑ど金一〇〇〇万円を下賜した(御内帑金とは天皇のお手元金)。一九一八(大正七)年、「四大政綱」の筆頭に教育問題を掲げた原敬内閣が誕生した。そして、同年一二月に「大学令」が公布され、翌年四月一日から施行された。その結果、日本の大学に関する一般法令は従来の帝国大学令ではなく、この「大学令」となった。 「大学令」において、まず大きく変化したのは、帝国大学以外にはじめて官公私立の大学が認可されたことであった。そして、帝国大学は複数の学部をもつ総合大学であったが、そういう大学観を前提としながらも、一つの学部からなる単科大学も認可されることになった。さらに、学部の上の研究科の設置が原則となったように、学部中心主義を明確にし、研究と教育の二つの機能を果たすようになった。また、この法令によらなければ「大学」と称することができないものとなった。これらの制度的改革を前提に、政府・文部省は大規模な官立高等教育拡張計画を公表した。それは官立高等学校一〇校の新設、帝国大学四校の増設、医学専門学校五校と高等商業学校の昇格、帝国大学六学部の増設などである。この拡張計画のために、宮内省は御内ない第五章 苦難の昇格運動131
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