派)も、新しい教育機関の創設を急いでいた。東本願寺は、教団の次代の人材を養成する学校を八(のち七)校設けるという構想であった。これによって各地に学校が設立されたが、慈光寺の本山である京都の東本願寺(真宗大谷機関として教師教校などを設置したが、洋学校を卒業した円了は英語のできる学生として、そこへ進むことになった。円了が教師教校英学科に入った一八七七(明治一〇)年に東京大学が設立され、東本願寺は半年後に円了に対して東京留学を命じた。まもなく円了は上京し、紹介されて東京大学総理の加藤弘ひ之ゆに会った。加藤からは予備門への受験をアドバイスされた。こうして、円了は一八七八(明治一一)年九月に東京大学の第一期生となった。当時の東京大学は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどからきた「御雇教師」「外国人教師」が教育をリードしていた時代で、英語などの外国語で授業がおこなわれていたため、予備門において英語を三年間学び、マスターしなければならなかった。予備門を終えた円了は、一八八一(明治一四)年に文学部哲学科に入学した。予備門から学部に進学した学生は、法学一〇名、文学六名、理学一六名、医学一六名あわせても四八第一章 哲学館の創立11 きろ
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