ショートヒストリー東洋大学
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立者の逝去や経営基盤が不安定になると、教育の理念よりも、学校としての機能や存立を重視する方に向かうのが一般的であった。建学の精神の継承を重視するのか、あるいは社会の現実に対応して生き残りの戦略を重視するのか、そうした選択の時代でもあった。一九一七(大正六)年一一月二三日、創立三〇周年を迎えた東洋大学は、どちらかと言えば、建学の精神を重視した私学であった。この年、記念事業の一つとして、創立以来の卒業生の調査がおこなわれた。その「東洋大学出身者調」によれば、「教育に従事する者」が二二%、「宗教に従事する者」が五四%で、その他は「監獄教誨・感化救済事業に従事する者」が七%、「新聞雑誌記者」が五%、「官公吏・衆議院議員」が二%、「実業に従事する者」が二%であった(卒業生三四二四名のうち就学・死亡・不詳を除く)。このような内訳が示すように、東洋大学は創立以来、建学の精神に掲げられたとおり、宗教者と教育者を育成するところであった。その結果、表6のように、明治末期から大正中期までの在学生数は、社会一般の高まっていく教育関心を反映せず、一定数のまま推移した。これが当時の東洋大学の状況を物語っている。第四章 東洋大学へ127   

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