ショートヒストリー東洋大学
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固辞した。さらに、一九一八(大正七)年に第三代学長の大内青巒が、高齢のために就任から四年で辞職したときも、卒業生で衆議院議員であった田中善立が、教育界や宗教界の現状と社会の変化の問題を説いて学長復帰の要請をしたが、円了はこれを断った。その理由を要約すれば、つぎのようになる。御説は一応もっともですが、現代政府の教育方針は依然として官僚統一主義で、自分の宿論である自由開発主義に相違するため、老齢に加鞭してふたたびその任にあたっても、到底、諸君の希望にそうことができないのであれば、先年退隠当時の決心のように、普通一般の通俗教育に一身を捧げ、当初の志望は後世に他の人によって遂行されることを期待する以外にありません。大正期は、日本の私学が一つの岐路に立たされた時期であると言われている。政治や経済が発展するなかで、二大私学と言われた早稲田大学と慶応義塾大学が特定の社会階層の成長とともに、経営的に安定して発展を遂げたのは例外的であった。他の私学の多くは創立期にはっきりとした建学の精神を掲げて出発したが、その後、創126   

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