年)などが女子に入学を許した。めてのことであった。それまでの女子教育は、高等女学校などの中等教育を上限としていた。しかし、明治後期になると、資本主義社会の発展や都市化などが進み、女性に対するより高度な教育や職業専門教育が必要であるという主張が多くみられるようになった。女子の高等教育としては、専門学校令が公布されて女子の専門学校も誕生していたが、学生数からみて、それは男子の一割にも満たない数であった。男子の学校で最初に女子の入学を認めたのは、一九一三(大正二)年の東北帝国大学である。北海道、東京などの帝国大学がそれに続いた。私立の専門学校としては、東洋大学をはじめとし、それから日本大学(一九二〇年)、早稲田大学(一九二一年)、同志社大学(一九二一東洋大学への最初の女子入学者は栗山津つ禰ねという。栗山は山形県の高等女学校を卒業後、教員を目指して上京し、はじめに専門学校以外で学んでいたが、一九一五(大正四)年に新聞で、教育調査会の大学改正案で女子の入学許可があることを知った。これはほどなく廃案になったが、栗山は実際上の問題と考えて、学生募集のあった早稲田大学と東洋大第四章 東洋大学へ123
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