五(大正四年)とで比較したものである。東洋大学と改称されたと同時に、「日清高等部」を開設した。政府の政策により、最盛期には八〇〇〇名以上におよんだという、清国(中国)からの留学生の一部を受け入れたものであるが、第一回の卒業生のみで終わった臨時的な機関であった。それ以後、東洋大学は堅実ではあったが、学制として大きな変化がないままに、やがて大正という時代を迎える。この時期の日本は、軽工業から重工業への展開があり、それに応じた社会の変化があった。とくに私学の多くは、一九〇〇年代から教育内容を職業準備教育へと移行させて、従来の法学や文学を主軸にするものから、商学系に重点をおくようになった。例えば、商学系の学部・学科は、一九〇三年に明治大学が設置し、翌一九〇四年には早稲田大学が、これに続いて日本大学や専修大学などにも新設されるようになった。主要な私学が、「早くから経済学中心の慶応義塾のあとを追って、企業の職員層、つまりサラリーマンの養成所としての『機能』に、発展性を求めた」のである。表4は、専門学校令による主要な私立大学の学生数を、一九〇五(明治三八)年と一九一第四章 東洋大学へ121
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