ショートヒストリー東洋大学
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産業社会への対応せしものなれば、井上家の子孫をしてこれを相続せしめ、またはこれに関係せしむる道理なくまた必要なし」と位置づけ、創立者の子孫への世襲を禁じていた。「学校は社会の共有物である」というのが、円了の哲学であったからである。一八八七(明治二〇)年に円了によって創立され、以後二〇年間にわたり創立者の「独力」で維持・発展してきた哲学館は、このようにして一九〇六(明治三九)年に「私立東洋大学」となり、新たな形で専門学校として歩み出した。新生となった東洋大学は、哲学館事件以後のあわただしさと混乱を沈静化するようにスタートした。一九〇七(明治四〇)年四月、教員免許の無試験検定の再出願がなされ、一か月後の五月に再認可された。これによって、六月には学則を変更して、それまで卒業生に与えていた「哲学士」の称号を「東洋大学文学士」と変更した。「高等、普通の学術・技芸を教授して」、宗教者と教育者を養成する専門学校であった。120   

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