(哲学館の名は、のちに述べるように、「哲学堂」に引き継がれたと考えられる)。に国民道徳普及会と改称)運動と哲学堂の建設に従事した。き継ぎ契約書の第一項に「東洋哲学の振興」を位置付けたように、世界=東洋・西洋と思想的にとらえた円了の中では「東洋」を校名に使うことは自然なことであったと言えよう財団法人の東洋大学は、基本財産のすべてが井上円了から寄付された。それは、土地や有価証券の基本財産と、建物や動産という基本財産以外のもの、合わせて約一〇万五二四四円であった。創立者の井上円了には、哲学堂一棟、曙町の平屋二棟、株券額面二三〇〇円が、創立以来の功労に対する「賞与」として与えられた。およそ一万五〇〇〇坪の哲学堂の土地は、円了がふたたび大学から買い戻すものとした。引退した円了は、名誉学長となり財団の顧問となったが、東洋大学との関係は卒業式や同窓会などの行事に出席する程度になり、契約によって一切を後継者に託した以上、大学の運営などに干渉すべきではないという態度で終始し、社会教育としての修身教会(のちまた、引退以前に公開遺言状をつくり、「学校は余が社会国家に対する事業として着手第四章 東洋大学へ119
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