「東洋大学」への改称庶民から寄付を集めると自分が支える学校だと考えるだろうという、円了の理念に忠実であったことの表れであると思われる。しかし、五〇銭の寄付を七八五〇件集めても四〇〇〇円に満たないなど、華族や財閥のような大金が自由になる層から大きな金額を集めるよりも効率が悪かったと考える」と指摘している。円了はおよそ一〇〇〇日に及ぶ講演の旅行を行い、二万五〇〇〇人から四万五〇〇〇円の寄付を集めて、大学、中学、幼稚園(小学校の設立も実際に検討されたが、時期尚早として見送った)という総合学園を創立した。そこには「学校は社会の共有物である」という円了の哲学があったからである。「東洋大学」という新しい校名は、井上円了が決めたものである。その理由を考えると、第一は哲学館という校名が、文部省によって引き起こされた事件によって傷つけられ、イメージダウンしたことを拭い去りたかったのであろう。第二は、そのことを前提とした場合、これまで述べてきた中に、「東洋学、東洋大学科」という名称があり、また引118
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