ショートヒストリー東洋大学
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泰た斗とと呼ばれ、東京帝国大学でも教鞭をとったことがある文学博士の前田慧え雲うが第二代学以上に集まったので、さらに銅像も建設された)。長となった。第二は、その後の大学のあり方を決めるものであり、つぎの三点であった。創立の主旨である東洋哲学の振興普及をはかること財団法人とすること場合は、出身者以外の講師(教員)のなかから選ぶこと明けて一九〇六(明治三九)年一月八日、学内の掲示板に「井上円了学長退隠」のことが張り出された。突然のことであったから、驚いた教員や学生を講堂に集めて、円了は引退のいきさつを説明した。病気のため、事業のため、社会のため、家族のためという四つの「退隠の理由」は雑誌にも掲載された。二月、校友の提案を受けて教職員・学生も寄付金を寄せて、創立者の精神を将来にわたり堅持するために、記念として円了の肖像画(油絵)を作成することとなった(寄付金が予想三  将来、出身者中にとくに抜群の者がいた場合、これに学長を継承させること。他の  第四章 東洋大学へ115    二一    いん

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