ショートヒストリー東洋大学
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治三八)年四月に幼稚園を設立し、夏には心身の回復をかねて、東京を離れて静岡、山口、って、それは深刻な状況であった。そのため、哲学館創立以来の初期の目的を達成したと考えて、区切りを付けようとした円了は、学校を解散して講習会組織にすることを知人たちに提案したこともあった。大学をめぐる問題は、「哲学館は井上円了や井上家の私物ではない」という批難や、あるいは「哲学館大学は仏教の一宗一派の学校なのだ」という誤解まで生むようになった。「世間とは誤解の多きもの」と、あえてとりあうことをしなかった円了は、一九〇五(明長崎、茨城の各県を巡講した。しかし、こうした日々のなかで、「精神の疲労のはなはだしさを覚え、徒然として日を送ることが多く、時には悲観に流れ、何事も意に適さないように感じ」ていた。医者からは「神経衰弱症」と診断されたが、一一月ごろになると「学校の俗務を避けたくなる気持ちが日ごとに強くなる」という精神状態に陥り、やがて一二月には、自宅の「庭先にて卒倒しそうになったことが二度ほど」あった。家族は万が一の事態を心配した。一二月一三日、例年のように、哲学館大学記念会が上野精養軒で開催された。この会で第四章 東洋大学へ113     

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