だが、専門学校令という新しい制度のもとで哲学館大学が誕生したこともあって、講師・校友と学長との間に学校に関する考え方の相違ができて、それが学内対立へと形を変えて進んだ。無試験検定の再出願は、学長自身の同意がなければ実現しなかった。井上円了学長の方針は、すでに述べたように再出願はしないというものであった。その態度は、哲学館事件の責任をとって辞任した中島徳蔵を、帰国後にふたたび講師としたように、かたくななまでであったと言われている。そのため、再出願をめぐる大学の問題は、いったん学長自身に投げかけられたが、実現は不可能であったから、つぎに学長の近辺にいた卒業者の教職員に向けられることになり、それは、同窓会のあり方に対する革新という形で主張されたのである。革新派は、「学長は文部省に対して反抗的な態度をとり」また「出身者の教職員が一種の朋党をなし専横暴慢を極めていて」、そのおこないは同窓会内部にとどまらず、大学の運営にまでおよんでいることを指摘した。「哲学館大学革新事件」と呼ばれたこの動向は、学長をはさんだ卒業生同士の対立であった。第四章 東洋大学へ111
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