無試験検定の再出願をめぐってとともに、教員の無試験検定の特典は、文科系の私立大学の特色をつくっていた。哲学館は事件によってその特色を失い、その結果、学生の一部は他の学校に転校してしまい、およそ半分にまで学生数が減少した。新たに出発した哲学館大学は、社会的条件の急変や哲学館事件の影響という重荷を背負っていた。一九〇四(明治三七)年四月の大学開校式の日、円了は白山校地から大学を移転するため、すでに購入していた土地に、大学昇格などを記念して「哲学堂(四聖堂)」を建設した。これが現在の東京都中野区の哲学堂公園の起源である。だが、大学の移転はこのとき進められなかった。円了は当面する入学者の減少に対応するために、仏教界の大教団である曹洞宗の管長などへ、哲学館大学の卒業生に対して住職の資格が認定されるように依頼した。そのほかにも、さまざまな手段を講じて働きかけをおこなった。その対策は実現したが、学生数の激108
元のページ ../index.html#110