学校)に入学した。この洋学校は、維新で敗れた旧長岡藩が地域の立て直しのために、教自分の思想を深めていく端緒となった。円了は、一〇歳(一八六八(明治元)年)から石黒忠た悳ののもとで漢学と算数を学びはじめた。旧来の伝統である漢学は、当時の知識人の基本であった。石黒はのちに陸軍軍医総監になった人で、西洋の学問にも通じていて、西洋風を好みとしていた。石黒は円了らの塾生の成績がよいときには、「西洋紙」をほうびとして与えるなどして、西洋という新しい世界を紹介した。円了はここで儒教の基礎を学んだが、同時に西洋世界との最初の触れ合いを自然にもつことができた。石黒の塾は一年間で終わったが、その後、長岡藩の儒者であった木村鈍ど叟そから、四年間にわたり漢学を本格的に習った。そして、円了は一五歳から新しい学問である洋学、とくに英語を学びはじめたが、これも文明開化の名のもとに西洋の文物を輸入するこの時代の流れに積極的に沿ったものであった。円了は本格的に洋学を学ぶため、一八七四(明治七)年に新潟学校第一分校(旧長岡洋育に力を入れるという方針で設立したもので、武士だけでなく、平民も入学できた画期的な学校であった。うん9 だり第一章 哲学館の創立
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