「哲学館事件」の余波(明治三七)年三月に、会員あてに「同窓諸兄に檄す」の一文を送り、母校発展のために積この修身教会を全国に普及させるために、一〇月には内務大臣と文部大臣に、さらに府県知事に、そして町村長および小学校長に、文書と『修身教会設立旨趣』が送付された。円了はこうして各府県や市町村の協力を求めるとともに、全国的な運動とするために、自ら全国を巡回して講演した。この社会教育としての修身教会運動には、文書に表されていないいくつかの目的があった。その一つは、哲学館事件で失った教育機関としての社会的評価をふたたび取り戻すことであった。哲学館は突然の事件を乗り越えて、新たに哲学館大学として出発した。しかし、政財界の有力者や宗教教団の支援などに頼らずに、個人の少額の寄付金によって運営されてきた学校の財政は、かなり厳しい状況にあった。同窓会では、大学の開校式に先だつ一九〇四極的な資本金の募集運動を開始した。第四章 東洋大学へ105
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