西洋との出会い東洋大学の前身を哲学館というが、この哲学館の創立者である井上円え了りうは、明治維新の一〇年前(一八五八(安政五)年)に、真宗大谷派の慈光寺(現在の新潟県長岡市浦)の長男として生まれた。真宗の教団では長男が住職を継ぐのが決まりであったため、円了も幼いころからそのための修練を積まされた。つねに数じ珠ずを手にして、周囲の人々も寺の後継者として円了を扱ったという。しかし、江戸時代に檀家制度のなかで安定していた仏教も、明治政府が神道国教化政策をとって、廃仏棄釈運動などによる弾圧を加えるようになると、その勢力は衰える一方となった。当時の世相を反映した狂歌に、「要らぬものはお役者」(大小は刀のこと)と詠まれたほどであった。円了はこのような状況のなかで、寺を継ぐ運命を背負っていたが、彼自身は一日も早く仏教の世界から脱出することを考えていた、と回想している。当時の世相は、幼い円了のなかに仏教に対する疑いを生じさせ、時代や社会への関心と弓矢大小茶器の類 ゆ8ん よ坊主山伏さて
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