IiHgher Buddhism(高等仏教)」とく空間や時間を、いわば群論における剰余群の要領で、六つに等分し、それぞれの世界のランドマークとして六地蔵を配したと考えられる。つまり、それぞれの剰余群を代表する元が地蔵である。数学的な厳密さはないが古代の人々が考えた宇宙観であり、輪廻は巡回群の要領で六等分した六道を巡回することである。抽象代数学の概念である群を援用して、宗教的概念を付会し説明すると六道とは無限の空間と時間を六等分して認識し把握するものであり、輪廻は六道の巡回によって無限の宇宙を定義したものと考えられる。抽象的な数学的アプローチばかりではない、人工知能による仏教対話を行う「ブッダボット」やアンドロイド観音等、自然科学のテクノロジーが仏教的価値観を具体化したものもある。このようなアプローチの先に、信仰以外の仏教の側面がある。仏教の教理には、宇宙論や原子論の科学、存在論や認識論、論理学といった哲学、戒律や瞑想といった倫理が含まれている。小泉八雲には「Nirvana(涅槃)」や「The いった文章があり、仏教に大いに関心を抱いていたことが知られている。彼が「KWADAN(怪談)」を著すのは後年のことであるが、井上円了の教育理念に反感を抱いたり失望したりしていたわけではない。先の週刊新聞の記事に、そのような記述がないのは大家である井上円了に遠慮してのことではない。自然科学は、ものごとを明解に解明し、整理するため曖昧模糊とした部分は残らない。かつて、高橋和巳は「カード式に整理されすぎた精神は、かえって不毛になるだろう」と書き、梅棹忠夫はそれに反駁を加えている。井上円了と小泉八雲の関係も、これと同じようなものだったのではないだろうか。─ 26 ─
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