二〇二二年度「井上円了が志したものとは」入賞作品集
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象徴を見出すものとしている。つまり、西洋哲学と東洋哲学の総合であり、それは、現代科学最高の知識の結果をも兼ね備えた、人類最良の英知である東洋の形而上学を研究することによって、宇宙哲学の解明を試みるものとし、これが、井上円了の「日本主義の大学」あるいは「日本大学」の教育目的であり、それはそのまま東洋大学の理念である。小泉八雲の記事は、井上円了の哲学を正確に伝えている。ここでいう東洋の形而上学とは仏教であり、これを進化論等の当時の科学理論と調和させることで、科学的合理性と宗教性を兼ね備えた宇宙観を構築しようとするのが井上円了であるとする。仏教に対する自然科学からのアプローチは、何も仏教そのものを否定しようとするものではない。仏教が信仰として拡大するために、いわば方便として利用してきた迷信・俗信の類は否定しても、仏教思想を重視し、それを哲学の中心に据えたのが井上円了である。自然科学の側面から仏教の理念に筆者なりにアプローチしてみると、例えば、代数学の一分野に群論がある。例えば、{〇、一、二、三、四、五}の六つの元を持つ集合が群であれば、この集合に六を法とする加法を入れたものと同型である。厳密さには欠けるが、端的にいえば、全ての整数は六で割ることによって、その余りが〇になるものから、五になるものまで六種類に分類できる。無限にある整数を六つに分類することができるのである。逆に、ただ一つの元を整数乗あるいは整数倍して群を生成するこが可能であり、このようにして生成された群を巡回群という。また、群論には剰余類があり、もとの群から部分群を除いていくことで群を剰余群として等分できる。もとより、数学的に厳密に定義できるのは結晶などの一部の特別な世界だけかも知れないが、太古より、人間は認識できるすべての世界を、言葉で定義することで把握しようとした。宇宙の意味する空間と時間は無限であるが、これを等分し、それが巡回すると定義し把握しようとしたのが輪廻である。天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六の世界を設定し、これを六道とするのが一般的であるが、日本では六道それぞれの境涯にあって、その衆生の苦しみを救済するために、地蔵菩薩の六分身として六地蔵が存在する。六地蔵とは、天道の日光、人間道の除蓋障、修羅道の持地、畜生道の宝印、餓鬼道の宝珠、地獄道の檀陀といった各地蔵菩薩とするのが一般的である。自然科学の知識を持たない古代の人々は、無限に続─ 25 ─

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