二〇二二年度「井上円了が志したものとは」入賞作品集
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表現からして、言語にはそもそも、現象や運動を物質のように取り扱う働きがある。その中で特に正義、公平、合理などは今や、人々がその実在を信じ物資化して流通している概念だ。それと、人々が妖怪を信じ、おそれおののくこととどう違うのか。井上は、現代にも妖怪がいることを私に気づかせてくれた。井上は人々が哲学的態度を身に付け妖怪が蜃気楼であることに気づける世になることを志した(なお、先に例示した正義は、在るとか無いとか言うものではない。四聖堂で称えられるカントが「汝の意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ」と言っていたように、実践のなかで蜃気楼のように浮かび上がってくるものだ)。井上は個人や社会の健全な成長を願った。その上で留意すべきことがある。インターネットが普及した現代、人々は様々な知見に容易にアクセスでき、一見、井上が望んだ「余資なく、優暇なき者」の学べる環境が整いつつあるように見える。だが、どんなに多くの知見に触れようと、哲学的態度なしに触れたのでは、無意味どころか、新たな妖怪を生むにすぎない。情報過多は、人々から哲学的態度を養う余裕を奪った。最近は手っ取り早く、結論を教えてもらう風潮が強い。現代は、新たな妖怪だらけだ。だからこそ、井上の志は、現代的意義を伴って、今なおさん然と輝いている。─ 23 ─

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