二〇二二年度「井上円了が志したものとは」入賞作品集
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活動のみに留まることなく、各地で講演し啓発活動に勤しみ、寄付を募り、大学を開校した。大学通信教育を他に先駆けて導入し、生涯教育の実践に努めた。「哲学者らしからぬ」というより「本来の哲学者とはこのようなもの」と思わせる。「高校や大学への進学率も覚束ないなかで」というより「覚束ないなかだからこそ」井上は励んだ。テクノロジーを駆使した様々な製品に囲まれて暮らしている現代の私たちは、科学的精神は当然自分に身に付いていると思っている。だが、本当にそうだろうか。原発事故、コロナ禍、ウクライナ情勢などで、私たちは正解のない難問をいくつも突き付けられた。私たちは問いの難解さのあまり、ともすれば思考停止し、付和雷同になっていないだろうか。なぜ、原発の電気をさほど使っていない、原発の立地地域が事故のリスクを途方もなく背負うのか。なぜ、ニュースで新型コロナウイルス感染症の罹患者数の報道が都道府県対抗戦の様相を呈しているのか。行政境にこだわらず搬送しやすくなれば、患者がもっと救いやすくなるのではないか。なぜ、他国により無辜の人々の命が奪われているのに、裁かれないのか。これらの問うべき問いについての議論をスキップし、「ああ、たいへんだ」という慨嘆の声に付和雷同するのみになっていないか。妖怪はいなくなったりしない。現代らしく、姿・かたちを変え、跋扈している。かく言う私自身、気がつかないうちに、妖怪に憑かれていた。何と言っても、現代の妖怪は巨大で、社会通念や空気というかたちで私たちを襲ってくる。そのことに気づかせてくれたのが、妖怪学だ。妖怪学は今なお健在である。妖怪は、人々の不安や恐怖、心の闇を映している。だから、人々がいる限り、妖怪はいなくならない。妖怪を見聞きし、おそれおののくは人間だけだ。私自身、科学の発展した現代において、妖怪などアニメのキャラクターにすぎず、その実在など信じていない――つもりだった。「だが」と私は、最近のニュースを見るにつけ自身に問う。例えば、正義は実在するのか。正義は物質(石)のように、誰が見ても「在る」と言われるものとは違う。蜃気楼のように、視点により、見えたり見えなかったりするものだ。それを人々(私を含む)は、実在しているものと混同し、実在を前提に議論したり行動したりすることに、大きな問題があるのではないか。「悲しい気持ちがある」という─ 22 ─

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