私は現在、私立高校の英語教員として教壇に立っている。私立とはいえ様々な境遇の生徒達が在籍し、「彼らに何を教え、伝えることができるだろうか…。」と思い悩むことは多い。自分で選んだ道であるにも関わらず、現状の厳しさから逃げ出したくなることもある。しかしそんな時、「井上円了先生なら何と言い、どのように行動するだろうか。」とよく考える。困難に直面した時、逆境の中で心が折れそうになった時、問題解決の糸口となるのが、井上円了が説いていた「ものの見方・考え方」なのだろう。不平不満や弱音を吐くのではなく、物事の本質と真理を見極めるため、自分の頭で考えることが必要なのだと思う。井上円了は、自身が政府の力に頼らず、独立自活の精神で創設した「私立哲学館」は、度重なる風災や火災、人災に襲われながらも、その都度冷静な判断で対処し乗り越えられたのは、正しいものの見方・考え方を持っていたからに他ならないだろう。何事にもめげない意志の強さと、人間としての器の大きさを感じる。私は日頃、生徒に様々なことを教えたつもりになっているが、実のところは何も教えていないのではと思うことがある。教育の本来の在り方とは、井上円了が言うように単に知識を身につけるだけではなく、感性を磨き人間性を高める対話の精神に基づくべきだからだ。豊かな感性と人間性が備わっていなければ、学ぶ喜びも味わえないのだろう。私は英語を教えることを通して、国や文化、性別の垣根を超え、広い視野を持った人を育てたいと思って英語教員になったが、そのためにはまず自分自身がそのような人にならなければならないのだと思う。また、自分の考えを一方的に押し付けるのではなく、様々な価値観を受け容れ、自らも学ぶ姿勢を見せながら教え子と接してきた井上円了の教育法は、私の目指すべき教師としての在り方だ。世界各地を旅行したのも、知らないことを自ら実際に確かめ、見聞を広めようという気概の表れだと思う。雑多な情報に溢れ、先行きの見えない現状だからこそ、唯一信じられるものはネットの世界の情報ではなく、あらゆる枠や規制、固定観念に捉われない個人のものの見方・考え方、哲学する心なのだと思う。いつの時代も、最後には精神的なもの、普遍的なものが頼りになることは言うまでもない。井上円了の生き方は、人として大切なことを教えてくれている。自主自立の精神、幅広い視野、飽くなき探究心、そして恵ま─ 20 ─
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