二〇二二年度「井上円了が志したものとは」入賞作品集
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る。ではなぜ円了はこの教育を基本としたのだろうか。私が中学生の頃、同級生に吃音を持っているクラスメイトがいた。連発や伸発という症状が特有の特徴的な話し方であった。その為か他のクラスメイト達は、彼を小馬鹿にするような発言や避けることが多く、始めは私もそのうちの一人であった。吃音に関する知識がなく、周囲の雰囲気に流されていたからだ。彼は昼休みによく一人で絵を描いていた。気になった私は勇気を出して、普段友達に話しかけるのと同じようにフラットに話しかけた。彼は驚く程に絵が上手かった。得意なこと、夢中になっていることには饒舌で、吃音持ちであることを感じさせない普通のクラスメイトの一人だった。偏見と先入観ばかりの自分の考えは愚かだった。彼と周囲の人々に人間的な格差などなかった。私は心から自分が今まで彼に取ってきた態度を恥じた。この反省に伴い、一つの側面だけで人を判断せず、主体性を持って行動を起こし、存在そのものを受け止める人間に成長しなければならないと痛感した。私がこの経験を通じて得たものは、なぜ円了はこの教育を基本としたのかという問いに対する自分なりの答えであった。また、それは社会福祉の在り方とリンクすると考えられる。「自分の哲学を持つ」「本質に迫って深く考える」という教育理念は、先入観や偏見に捉われず、多様な価値観で物事の本質を理解するという内容である。これは社会福祉の学びと実践において欠かせない考え方である。第一に、障害者・高齢者・幼児・患者を対等な関係として捉え、自分の心の内の先入観や偏見を自覚し、コントロールする自己覚知が最重要だからである。第二に、多様性を実現する上で自他共に認めるという相互承認が必要不可欠だからである。これらの要素より、柔軟な考え方で相手の心に寄り添い、要支援者を受容することが、本来目指すべき社会福祉の姿なのではないだろうか。現代社会が求める福祉の形は流動的である。考えを改める以前の私は、人に付随しているもの(例えば障害やその人の置かれている環境)ばかりに目を向け、自ら壁を作り本質から目を背けていた。「仕方が無い」と突き放し、傍観者となることは簡単である。しかし、現代社会の福祉に対応するためには、個人や多様性の尊重の思考への転換が大切であり、中核的価値観の見直しが必要であると考える。一人一人が自分自身の頭で考え判断する力を身につけ、自分が起点となり工夫をして歩み寄る姿勢を身につけるべきである。─ 8 ─

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