CATALOG 井上円了
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043この名簿は哲学堂の来訪者名簿の1冊目であり、現存するものは全部で16冊ある。東洋大学にはほかに詩歌を書くことができる帳面の第1冊が所蔵されている。表紙、表紙裏には井上円了の手によるタイトル、断り書きが記されているが、以降は来訪者が自由に記している。表出のページは明治37年(1904)7月15日の続きであり前ページに3人の名前がある。この日は7月3日の次の公開日であった。15日の記名者はすべて円了と関係を持っていた者であり、この頃の来訪者は哲学館·京北中学の教員、学生·生徒がほとんどである。ここに記されているなかから幾人か取り上げて紹介したい。右端の西山哲治(1883-1939)は、兵庫県氷上郡出身。明治38年7月に哲学館を卒業したあと、ニューヨーク大学に留学し、Doctor of pedagogyを取得。明治45年、巣鴨に帝国幼稚園·小学校を設立し、校長となる。大正15年(1926)から東洋大学教授も務めた。なお、妻は哲学堂の施工責任者であった山尾新三郎の娘である。左隣の西垣尭則は、哲学館修了後に大阪の立川文庫で55有名な立川文明社から『阪神電気鉄道沿線名所案内』(明治41年)、『格言教訓全書 : 品性修養人格鍛練』(明治42年)、『伊蘇普物語二百話』(明治44年)などの本を出している。円了の『南船北馬集』第4編によれば、明治42年1月31日に神戸で行われた同窓会に出席している。左ページ右から3番目の東敬治(1860-1935)は、岩国の陽明学者·東澤瀉の息子。哲学館の漢文·漢学の講師を務め、東洋大学における朝鮮·中国の儒学者との交流に関係した。大正期には渋沢栄一(1840-1931)の陽明先生全書講読会で講師を務めていた。王守仁(1472-1529)の儒学を陽明学と呼ぶことになったのは、彼の活動を通してのことであるとされる。左ページ右から5番目の林竹次郎(1875-1947)は、東京神田の出身。号を古渓という。哲学館卒業後は京北中学に勤め、国語漢文を教え、昭和8年(1933)に立正大学教授に転じた。歌人·漢詩人でもあり、「浜辺の歌」「東洋大学校歌」の作詞者でもある。(出野 尚紀)⦿明治37年(1904)7月1日〜〔明治37年7月3日〜43年6月20日記載〕⦿東洋大学井上円了研究センター蔵哲学堂来観諸君名簿 第1号

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