52作者の新海竹太郎(1868-1927)は、明治維新の年に山形の仏師の家に生まれ、長じて近衛騎兵大隊に入営するが、在隊中に初めて作った馬の木彫が評判となったことがきっかけで彫刻家を志し、馬の彫刻を得意とした後藤貞行(1850-1903)に師事した。その後国内の美術展で数々の賞を受賞し、明治33年(1900)から翌年にかけてドイツへ留学して彫刻家エルンスト·ヘルター(Erunst Gustav Herter 1846-1917)に師事。明治35年の帰国後は文展の審査員をつとめた他、太平洋画会の中心メンバーとして活躍するなど、明治、大正期の彫刻界に大きな影響力を与えた。銅像制作も数多くこなし、《北白川宮能久親王像》(千代田区北の丸公園)、《大山元帥像》(同九段坂)など現在も国内にのこる著名な銅像を制作している。本作は、東洋大学の前身である哲学館(後の哲学館大学)の創立者·井上円了が明治39年に同校を辞職する際、制作された肖像彫刻であり、同年の『美術新報』(5巻8号)に「前哲学館長井上円了博士の報恩紀念に建設する銅像原型製作中にて、八月中旬迄に作成鋳造に移す運びに至る可し」と報じられている。アカデミックな作風を特色とするヘルターに通じる手堅い技法で仕上げられており、細長い基台が像を支える台座のスタイルや、瞳の部分が刳り抜かれている点に明治期の彫刻の特色を示す。かつて本作は大学の屋外に設置されていたが、学生運動が盛んだった時期に頭部に強い衝撃を受けて陥没し、その後現状のように修復された。(藤井 明)040井上円了像⦿ブロンズ ⦿新海竹太郎作 ⦿明治39年(1906) ⦿東洋大学蔵参考:完成時の井上円了像(『東洋哲学』第13編第10号、東洋哲学発行所、明治39年)
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