拝啓 愈御多祥奉賀上候過日御願申置候件ニ付本日更ニ御願ニ参上致心得之処米国行之友人有之 送別ニ罷越候ニ付幹事磯江潤代理参台為致申候何卒来ル二十日第三日曜午前弊館ヘ御光来被下学術上之講演被成下度奉懇望候当日ハ加藤大学総長并理学士坪井正五郎氏ニモ出席講演有之候ニ付是非御臨席被下度奉願上候時間其他之事ハ磯江より可申上候右得貴意度 十一月九日井上円了 早々敬具 森博士殿 侍史51 十三日井上円了訪ひ来て、哲学館の日曜講筵〈ママ〉にて何か講ずべしと求む。折もあらば、食物の話をせむと約して帰し遣りぬ。名刺の片隅に、禁酒禁烟、諸事倹約と細書したり。これもその人となりを知る一端なるべし。応接の間、危座して膝に手をおき、微笑みつつ細き声にて物言ふ人なり。容貌猶僧侶めきたるもをかし。終日乍晴乍雨。学博士 森林太郎」の名が確認でき、この年に鷗外が哲学館で講演を行っていたことがわかる。本書簡は、10月の面会時に依頼した日曜講義の詳細を伝えるものと考えられる。なお、歌人·与謝野鉄幹(1873-1935)は哲学館で行われた鷗外の講演を聴講しており、次のように語っている(森於菟・森潤三郎編『鷗外遺珠と思ひ出』、昭和書房、1934年、p.411)。自分は明治二十五年八月に東京へ来たが、翌九月に駒込の哲学館で先生と岡田良平氏との講演があつたのを聴いた。先生の題目は米食と衛生の関係で、最近の軍隊衛生に実験せられた結果、米食の栄養価値の高いことを立証せられたのであつた。此日自分は初めて軍服姿の颯爽たる青年時代の先生を拝したのであつた。上記は「年月の精確を除外すれば、其他の記憶は確か」と前置きしたうえでの証言である。実際に、講演日と登壇者が書簡や「観潮楼日記」と食い違う点は留意すべきであるだろう。しかしながら、鷗外はこの頃に兵食試験委員として米食、麦食、洋食の比較を行い、明治23から24年にかけて米食の優位性を発表している。鉄幹の回想と当時の鷗外が取り組んでいた職務、そして「観潮楼日記」中の「食物の話をせむ」という一節を勘案すれば、この証言と書簡との関連は、今後検討する価値があると言える。(佐々木 悠里)*明治25年1月から明治26年12月までの記録を掲載している。 039森鷗外宛 井上円了書簡井上円了が森鷗外(1862-1922)に哲学館での講演を依頼する内容。講演の日程や鷗外のほかに帝国大学総長·加藤弘之(1836-1916)、人類学者·坪井正五郎(1863-1913)らが登壇する旨が綴られている。冒頭に「過日御願申置候件」とあるように、この1か月前の明治25年(1892)10月13日の「観潮楼日記」には、円了が鷗外のもとを来訪していた記録が残されている(森林太郎『鷗外全集』第35巻、岩波書店、1975年、p.231)。面会に訪れた円了の様子が詳細に書き留められており、その「人となり」は鷗外にとって印象的であったことが窺える。円了が依頼した「哲学館の日曜講筵」とは、哲学普及の一環として人々に開放された公開講座「日曜講義」のことである。明治23年から始められ、講師は通常の講義を受け持つ定時講師のほか、別途依頼された臨時講師が務めた。明治26年度*の「哲学館報告」(『哲学館正科講義録』第7号号外、哲学館、1894年、p.11)、および明治26年7月の『哲学館規則』(哲学館、1893年)の講師一覧のなかには「医⦿井上円了筆 ⦿明治25年(1892)11月9日か ⦿文京区立森鷗外記念館蔵
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