②「孔釈琑韓」③「護国愛理」①「南無阿弥陀仏」50の「孔釈琑韓ノ四大字ヲ題スル額」を掲げたとある(井上円了「哲学祭記」、『哲学館講義録』第6学年第1号、哲学館、1892年、p.7)。このことから、本作は①と同時期の明治25年頃の作と推測される。③は、円了の造語である「護国愛理」の4字を書したものである。哲学者として真理を愛しこれを考究するにとどまらず、学問を通して国家社会の発展に尽くさねばならない。「護国愛理」とは、そのような円了の信条をあらわした言葉で、哲学館の教育理念でもあった。「明治戊戌春月」の年記から明治31年の作であるが、後年、②とともに哲学堂に移され、園内の「髑髏庵」と名付けられた建物のなかに掲げられた。いずれの書も、円了の思想·信仰と行動にかかわる重要な語をあらわした作品であり、また哲学館の賛助者である副島と円了の交流を伝える貴重な資料でもある。(北田 建二)038副島種臣の書(「南無阿弥陀仏」、「孔釈琑韓」、「護国愛理」)創立期の哲学館の賛助者には、勝海舟(1823-1899)や山県有朋(1838-1922)ら、明治の政官界の実力者、有爵者が名を連ねている。そのなかのひとり、副島種臣(1828-1905)は、外務卿、枢密顧問官、内務大臣を歴任した政治家·官僚であると同時に、能書家·漢詩人としても名を残した多才な人物として知られる。現在、東洋大学には、井上円了の需めに応じて副島が制作した書が3点残されている。①は、「壬辰極月」の年記から明治25年(1892)12月の作である。副島特有の書体により、六字名号(「南無阿弥陀仏」)をあらわす。円了がわざわざこの書を需めたのは、自らのルーツとしてある真宗に対する信仰心からであろう。②は、円了が「四聖」として奉崇する4人の哲学者(孔子、釈迦、ソクラテス、カント)をあらわした「孔釈琑韓」の四字額である。年記がなく正確な制作年は不明だが、明治25年11月発行の『哲学館講義録』の記事に、同年10月27日、円了が四聖を祀るために催した哲学祭で、副島⦿紙本墨書、掛幅① / 紙本墨書、額装②③ ⦿副島種臣書 ⦿明治25年(1892)①、明治25年頃②、明治31年③ ⦿東洋大学井上円了研究センター蔵
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