(書)[印]吉凶禍福是天主張 毀誉予奪是人主張 立身行己是我主張 甲午晩夏 海舟[印][印](書き下し)吉凶禍福は是れ天の主張、毀誉予奪は是れ人の主張、立身行己は是れ我れの主張。49勝海舟(1823-1899)、加藤弘之(1836-1916)、寺田福寿(1853-1894)は「哲学館の三恩人」である。加藤は、円了の東京大学予備門入学から自身の死まで人脈や学識者としての援助を行なった。寺田は、蓬莱町校舎(現郁文館夢学園)の隣りにあった真浄寺で住職を務め、円了の相談相手となったり、寄宿舎生の食事の面倒を見たりした。勝は、初めての面会のときに「精神一到すれば、無限の歳月の間には必ず成るをいう。君もその心得にて哲学館の目的に従すべし」(『井上円了選集』第24巻、東洋大学、2004年、p.69)と応援して、100円という当時の大金を寄付した。哲学館自前の校舎が建築中に台風によって倒壊したときには、円了にその覚悟を問い、全国を巡って寄付を集めるという経営についてのアドヴァイスを行なうとともに、自らも揮毫して哲学館経営を助けた。円了は勝の死後に「精神上の師」と称え、墓前の手水鉢に海軍軍人や旧幕臣とともに名を刻んでいる。本資料は、井上家に伝来したもので、清の金蘭生や徳富蘇峰(1863-1957)なども同じ文を記しており、19世紀末から20世紀初頭にかけては一般的な節であったと思われる。朱子の弟子である陳淳の『北溪字義』に「吉凶禍福是天主張毀誉与奪是人主張立身行己是吾主張三者不相奪也」とあるので、出典はこれに求められるのではないか。記された明治27年に円了に渡されたものであれば、同年に寺田や父·円悟(1830-1894)の死に見舞われた円了を励ます意図が海舟にはあったのだろう。(出野 尚紀)037吉凶禍福天主張⦿絖本墨書、掛幅 ⦿勝海舟書 ⦿明治27年(1894)⦿東洋大学井上円了研究センター蔵
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