CATALOG 井上円了
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赤日赫々、炎威熬々、焚クカ如ク、炊クカ如ク、身体保シ難キ処、本月八日発程僅ニ十三日ニシテ同二十日恙ナク着京、請フ、諸賢幸ニ休神アランコトヲ、迂生亦遥ニ諸賢ノ健強ヲ祈ル、曩ニ在郷ノ節ハ永ク沃啓ノ恩ヲ蒙リ、殊ニ竹馬ノ交ヲ辱フシ終始同窓ニ勤学セント盟ヒシニ、不幸ニシテ金蘭ノ交ヲ絶チ膠漆ノ手ヲ分タントスル、感嘆不惜ザリシカ、務テ交情ヲ破リ同盟ニ乖キ愁涙難収、悢々トシテ辞スルコトヲ得辟命ニ趨ル、誠トニ是レ迂生ノ本意ニ違ヒ諸賢ノ交誼ヲ空フスルモ亦止ムヲ得サルナリ、多罪々々、請フ少ク宥恕アランコトヲ実ニ感謝ニ耐サルナリ、異日遂志ノ上又将ニ竭ス所ノ誼アラントトス、一且志ヲ立テヽ郷関ヲ出ル後ハ、無労無功ニシテ故園ニ帰ル、固ヨリ余カ期セザル所古人云錦ヲ衣テ郷ニ帰ルト、余カ錦繍ヲ衣ル能ハザルモ冀クハ垢衣ヲ一洗シテ故郷ニ帰リ同盟ノ諸賢ニ面センコトヲ、諸賢若シ余ニ先テ金玉ヲ飾ラ百年間奠鼎ノ地ニシテ、風俗温雅言笑ハ、余跪テ堂上ニ謁センノミ、京師ハ数巧美窈窕タル淑女ノ多キ、諸賢ノ已ニ聞知スル所、爛々タル祇園ノ花関々タル島原ノ鳥、誰カ耳目ヲ揺サヾランヤ、太伯夷叔ノ廉士ト雖トモ、心ヲ傾クル必然タルハ吾信スル所ナリ、余晩ニ涼ヲ四条ニ納ルヽニ花鳥翩々トシテ橋上ヲ徊徘ス、衣袂香フカ如ク笄簪鳴ルカ如ク、屢々訝カル花鳥ノ楽域ニ入カト傍人皆駭心瞠目手扇ノ川中ニ落ルヲ知ズ、哀イカナ今ノ人、花鳥ノ為メニ丈夫ノ客ノ中ニ立チ、儼然トシテ吾独リ醒ム、節操ヲ奪ハル、嗚呼亦甚シ矣、斯ル酔亦屈原ノ嘆ナキ能ハス、其志ノ立ル重キコト鉄石ノ如ク、堅キコト金玉ノ如シ、諸賢宜ク恬意アランコトヲ祈ル、吾望ム所ハ他ノ花鳥ヲ弄スルニ非ズ、吾花鳥ヲシテ人ヲ駭カサンコトヲ、是レ丈夫ノ丈夫タル志節ニシテ実ニ余輩ノ分トスル所ナリ、福氏云、花見テ花ヲ羨ムナト、固トニ然リ、斯一言以テ余輩ノ訓誡トスルニ足ル、果〆然ラハ之ヲ為スニ術アリヤ、曰ク有リ、千方万術然レトモ要スルニ勉耐ノ二力ニ帰ス、他人ノ花ヲ羨ヲ輝ス、是レ勉力ノ致ス所、百事千業マザル、是レ耐力ノ為ス所、自己ノ花皆斯二力ニ成ラザルハナシ、在昔拿氏ハ始メニ二力ヲ守テ後ニ耐力ヲ失ス、故ニ魯敗ヲ免レズ、華氏ハ終始二力ヲ全フス、故ニ能ク万世不抜ノ国体ヲ創ス、舜禹ノ天下ヲ有ツ、又皆此ニ力ニ成ル、之ヲ得ルト失フト以テ事ノ成敗人ノ栄枯ヲ鑑スヘシ、是レ諸賢ノ詳カニスル所余カ囂々ヲ待ザルナリ、是ヲ以テ余カ成業ヲ期スル、唯此ニ力ニ由ラントス、■請フ諸賢ノ論評アランコトヲ、唯恨ムラクハ遠客知己ナク、他房渾ノ是レ他郷ノ客同室復同国ノ人ニ非サルコトヲ、シテ人車絡繹昼夜絶エス、都会ノ都会寓舎幸ニ停車場(ステンシュン)ニ近フタルモ却テ余カ愁情ヲ助クルノミ、朗詠シテ曰ク、燭暗数行遊子涙、夜深四面楚歌声、客情ヲ話ルニ其人ナク独リ芒然トシテ稍悲涙ヲ収ルノミ、遠ク諸賢ト郵上ニ交談センコトヲ楽ミトス、願クハ又郷国ノ景況ヲ郵報シ玉ヘ、迂生モ今般洋学生ニ補セラレ 旬月帰国ノ目ナシ、若シ能ク業ヲ遂ゲハ我国教ヲシテ他邦ニ播布セシメントスルノ大願宿志ナリ、諸賢其狂心ヲ笑フ勿レ、嘗テ国境ヲ踰ルトキ関川ニ泊ス、曰ク■■[霜越山并得信州景、遮莫家郷憶遠行 願満]風満旅亭蒸気清、数声杜宇月之更、クハ玉眸ニ入レンコトヲ、当節ハ必ス暑中休暇ニテ諸賢多クハ五〈ママ〉帰省ト察ス、若シ昇校ニ相成候ハヽ右様宜ク御通信ヲ乞フ、先ツ早々略章、餘ハ後信ヲ竢ツ 西京東六条烏丸通リ中珠数屋町上ル 下間氏旅舎寓井上円了拝七月二十七日岩嵜君長橋君野秋君村山君家坂君磯貝君大橋君北野君松沢君大塚君吉村君荒木君槙君磯部君小林君鈴木君飯塚君目黒君水島君外之四名長岡校ニ於テ岩嵜祐五郎様長橋政太郎様  野秋利貞様外諸君  平安西京東六条御堂前烏丸通中珠数屋町上ル南下間宅寓井上円了   藤井君秋山君牧野君北原君両長島君関矢君机下47長岡学校を離れた後、学校の「雇」となっている。野秋は長岡学校が長岡洋学校として創設されて以来、学校掛を務めていた野秋兵太郎の長男で兵太郎の代理を務めることもあった人物である。在校中の厚情を謝し、京都の暑さを嘆くとともに、成業の後の再会を期し、祇園·島原など花街の遊女たちを花鳥になぞらえ、酔客で賑わう京都の様子を知らせたうえで、福澤諭吉の「花見て花を羨むな」を訓戒とし、「拿氏」(拿破崙·ナポレオン)と「華氏」(華盛頓·ワシントン)を例に、自らの成業の如何は「勉」「耐」の二力に依ると決意を述べている。一方で、京都は郷里から遠く離れ知己もおらず、都会の喧騒がより一層の寂しさを増し、同窓の友との文通が何よりの楽しみであるとしている。円了の不安と覚悟を窺うことができる。     (田邊 幹)035岩嵜祐五郎ほか宛 井上円了書簡井上円了は明治10年(1877)6月、長岡学校を離れ、7月末、京都の東本願寺教師教校に入学した。当資料は7月27日付で長岡学校で同窓であった岩嵜祐五郎らに送った書簡。 『漫遊記』(稿本 明治10~18年 東洋大学井上円了研究センター蔵)によると円了は7月8日に長岡を出発、20日に京都に到着したようである。書簡の後半で道中、7月10日に信越国境の関川に宿泊した際に詠んだ漢詩を披露していることから、京都到着後、最初に送ったものと推測される。なお、この漢詩は『屈蠖詩集』(稿本 明治10~18年 東洋大学井上円了研究センター蔵)に「泊関川宿」との題で収録されている。宛名は長岡学校の寮生たちであり、特に冒頭の岩嵜祐五郎·長橋政太郎·野秋利貞の3人の名は封書であったと考えられる左端の部分にも記されている。岩嵜は和同会設立の際の結社人員に名を連ねており、長橋とともに円了が⦿紙本墨書、掛幅 ⦿井上円了筆 ⦿明治10年(1877)⦿長岡市立中央図書館蔵                              

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