· (封筒宛名)東京市小石川区水道町五四 高橋九郎様(通信文)拝復十八日附御書面昨日落手拝見仕候御申越之件別紙之通り取調へ御送り申上候同封致し候書類左之通りに候一髙橋九郎戸籍謄本一髙橋東七郎戸籍謄本一政一、九郎間交換誓約書写壱部一殖産会社定款壱部一登記取調控壱枚以上〇当方皆々障りなく罷在候 病人者孰れも日毎に 能過良好に候間御安 心被下度候 見舞受納の重なるものは一舶来葡萄酒弐本 一 チョコレート、クリーム 五ケ入弐箱 に御座候双方共礼状発送 致し置き候右御返事旁々御報知まで 草々敬具三月廿一日逸平友二郎 髙橋九郎様坐下 当地方昨日は吹雪にて恰も寒中の如く候へも本日は晴天と相成候壱部壱部井上円了六十九倶楽部46西組の割元を勤めた家であり、円了の生家である慈光寺の檀家惣代も勤めていた。6代目高橋九郎は、元治元年(1864)から明治2年(1869)まで片貝村(現新潟県小千谷市)の丸山貝陵の塾(耕読堂)にて学び、その後、明治3年(1870)から同6年まで長岡藩士·木村鈍叟(1810-1886)のもとで漢学を学んだ。円了も同時期に木村鈍叟のもとで学んでおり、両者は同学であった。九郎は、新潟県第十六大区小六区の副大区長、宮川外新田·道半村戸長、宮川外新田外10か村の連合戸長を勤め、明治27年には衆議院議員に初当選、同31年に再び衆議院議員となり4年間在職、同41年には来迎寺村長を勤めた。その他、神谷信用組合の設立や地域住民への気象情報の提供、救恤活動など様々な活動を行い、大正5年には、長年の功績を称えられ藍綬功章を授与された(高橋家文書 根-224)。これらの九郎の活動から、高橋家は地域を代表する名望家としての地位を築き、息子である友二郎もそれを継承していった。(長谷川 彩)034高橋九郎宛 高橋友二郎・逸平書簡本史料は、高橋家当主6代目高橋九郎(1850-1922)宛てに息子友二郎と妹婿逸平が送った書簡である。九郎に頼まれていた書類を送付した報告とともに家族の近況を伝えている。その中の一文に、見舞品として井上円了から舶来品の葡萄酒2本を受け取った旨が記されている。石黒忠悳(1845-1941)からの書簡(東洋大学井上円了記念博物館所蔵高橋家文書〔以下、高橋家文書〕35-4-82)によると、この時期に友二郎の妻が病気を患っており、その見舞いの品として贈られたものであると思われる。大正時代初期の舶来品の葡萄酒の価格は約60銭から3円20銭と高価なものであった。円了は大正7年(1918)2月16日から3月28日まで尾張国を巡講中であったため巡講先から送ったのであろう。大正3年8月には未曾有の水害に遭った高橋家を心配し見舞う書簡を送っており(神谷支所所蔵高橋家文書 200)、高橋九郎、そして高橋家が円了にとって重要な存在であることが窺える。高橋家は、越後国三さんとうぐん島郡の豪農で近世後期には長岡藩⦿高橋友二郎・逸平差出 ⦿大正7年(1918)3月21日 ⦿東洋大学井上円了記念博物館蔵(高橋家文書35-4-82)
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