(袖裏書)患中ニて延引 七月丗一日発(書簡本文)益多祥恭賀仕候 ○東株五株ニ対スル配当拾三円五十銭 正ニ受取申候 御手数恭謝仕候 ○井上円了氏 昨日帰朝候 同人も不在中 委託いたし置候倫理学教師中島氏 トンダ事を仕出来候為ニ同君も大心配ニ候 ○近隣西脇方 小生方江七年来願候間 世間にては家事等万事 小生ニても相談致候様見なし候ものと見へ 今度婚礼ニ馬鹿〳〵敷大騒過候を小生協讃候事之如くニ唱へ 加之其大騒をしたるにも不抱 下層人民江者冷々薄々と之事にて 西脇を責 引て小生をも責候説有之候 御存通婚義ニ付ては小生も意見有之候得共 相談とては一言もなく 又婚礼ニ付て之注意は小生書面ニて申遣候得共右ニ対しては手紙ハ勿論逢ふても一言も噺もなく候ゆへ不止得昨日一通遣置申候主旨は世の不景気ニも不関派なる婚儀をすればそれニ相応之慈善事業をせよといふ事ニ有之候併し今日ニなりては十日の菊でもはや時期を失ひ居申候多く之賢明なる輔弼者ニ周囲され居候事故其辺は無遣算事と被存候○政府も大更革いたし候積ニ可有之も其実如何可有之やと存候右申上度時期御いとひ専念候謹具 三六七月廿八日 立 其二白令夫人様ニよろしく 高橋九郎様 山妻より申上候○先者石黒忠悳45として哲学館の教員免許の無試験検定の認可を取り消す決定をした。中島は辞職したが、新聞に事件の内容や双方の主張が掲載され、世の関心を呼んだ。ロンドンで事件の拡大を知った円了は、表では慎重を期して処分を受け入れ、側面から元勲等に願って同省に働きかけることを指示した。円了は、師と仰ぎ、政界にも顔がきく石黒にも相談したことが、本書簡からわかる。石黒は元勲クラスではないが、山県有朋や桂太郎など陸軍·政界首脳部につながることから同省への働きかけを依頼したのだろう。しかし、石黒としても何も出来なかった様子が書簡から理解される。実際、本件で石黒は動かず、傍観者的態度に終始した。おそらく、陸軍長州閥が同省を支持していることがわかったからであろう。その後、円了は、哲学館大学の認可を申請し、認可されたが、無試験検定は認可されなかった。哲学館大学の苦難の道の始まりである。(岩下 哲典)033高橋九郎宛 石黒忠悳書簡井上円了の師·石黒忠悳(1845-1941)が、哲学館事件に言及した唯一の書簡である。当時石黒は、男爵、陸軍軍医総監予備役。役職は無役。高橋は、円了実家の慈光寺の大旦那、同寺が所在する浦村の豪農。本書簡には「井上円了氏、昨日帰朝候、同人も不在中、委託いたし置候倫理学教師中島氏、トンダ事を仕出来候為ニ同君も大心配ニ候」とある。円了が第2回の海外視察(明治35年11月から同36年7月までの世界旅行)から帰って、石黒に会いに来た。不在中に委託の倫理学講師中島徳蔵が、哲学館事件を起こしたため、円了も大心配しているとする。すなわち、明治35年(1902)10月に中島が行なった倫理学の試験内容に文部省視学官が疑義を呈し、哲学館の倫理学教育が国体を揺るがす内容ではないかとされた。11月、円了と中島らは同省を訪れ弁明に努めた。直後、円了は海外視察に出かけ、それを待っていたかのように、同省からの問合わせがあり、中島らは弁明書を提出。同省は省議⦿石黒忠悳筆 ⦿明治36年(1903)7月28日⦿東洋大学井上円了記念博物館蔵(高橋家文書35-4-36)
元のページ ../index.html#45