44木村鈍どんそう叟(1810-1886)は、長岡藩の儒学者。名を恒、字は子一、通称誠一郎(清一郎)。号に竹軒および壽じゅあん菴。後半生は鈍叟(鈍翁とも)ないし水雲を専ら用いた。天保2年(1831)藩中より選抜され、江戸の朝川善庵に就いて学ぶ。帰国後は藩校崇徳館の都講(塾頭)を経て、郡奉行を勤めた。北越戊辰戦争による長岡落城後、鈍叟は長岡近在の浦村に居を定め、慈光寺(井上円了生家)に開かれた学校で漢学を教えた。円了は石黒忠ただのり悳の家塾で学んだ後、鈍叟に就いたのである。5年ほどの年月をここで過ごし、鈍叟は田沢村(現新潟県十日町市)の村山家に嫁いだ末娘のもとに身を寄せた。掲載の書軸はもと宮みやがわと川外新田(浦村の隣村、現新潟県長岡市)の高橋九郎右衛門家に伝来したもの。同家は近世後期に長岡藩西組割元を勤めた家で、慈光寺の檀家総代でもあった。求めに応じて鈍叟が書したのは、隠遁の田園詩人、陶淵明の著名な詩である。結廬在人境 廬いおりを結んで人境に在り而無車馬喧 而しかも車馬の喧かまびすしき無し問君何能爾 君に問う何ぞ能く爾しかるやと心遠地自偏 心遠ければ地自ずから偏なり採菊東籬下 菊を採る東とうり籬の下悠然見南山 悠然として南山を見る山気日夕佳 山気 日夕に佳よく飛鳥相與還 飛鳥 相與ともに還る此間有真意 此の間に真意有り欲辯已忘言 辯べんぜんと欲して已すでに言を忘る 庚午暮秋 鈍翁迂恒落款印は「木邨恒章」(白文)。関防印は、蘇東坡の前赤壁賦の一節から「眇々兮予懐」(白文)。9句目は本来「此中」とすべきだが、意味するところは変わらない。都会の塵じんあい埃を少しく離れ、片田舎で悠々と満ち足りた生活を送るさまは、古くより文人たちの理想とされた。他方でこちら、老齢に及んで御一新の荒波にさらされた鈍叟は、暮らしなれた城下を潔いさぎよく離れて、新たな生を浦村で送りつつある。かくて鈍叟の境涯と詩が二重写しになってみえてくる。(松本 剣志郎)032陶淵明 「飲酒其五」⦿紙本墨書、掛幅 ⦿木村鈍叟書 ⦿明治3年(1870) ⦿東洋大学井上円了研究センター蔵
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