CATALOG 井上円了
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42る「哲学堂祭」を行ない、四聖を祀ることとその次第が定められている。第二類からは円了の周到な性格が窺えるとともに、遺産分配先のほか、次のようなことが記されている。まず、分配のしかたから、6人の弟妹のうち次弟と三弟が先に亡くなっていたことになる。そして、子どもたちには、哲学堂を除く家屋敷の不動産については家督相続をする玄一に譲るが、その他の現金や株券などは3人に平等に分けること、親族以外にも寄付先が明記されていることなどの特徴がみられる。第三類では、国民道徳普及会については何も記されていないにも関わらず、哲学堂については項を立てていることから、自分の死後に哲学堂が公共物として永続することが、いかに強い意向であったかと想像される。また、第四類は夫婦が一緒に亡くなった場合を想定している。(出野 尚紀)031遺言状井上円了は、大正8年(1919)6月6日に旅先の大連で急逝したため、残された家族には何の準備もなかった。しかし当時の旅行者のたしなみと、持ち前の慎重で周到な性格から、大正7年1月にはこの遺言状が用意されていた。なお、この遺言状の内容は、裁判所での検認を経て1月後に告知された。家族でも妻·敬、長男·玄一、長女·滋野は受取人として名前があるが、次女·澄江は未成年であったため円了の妻·敬が親権者として代理になっている。その構成は、第一類の葬式及び法会に関する件が12項、第二類の遺産に関する件が4項、第三類の哲学堂に関する件が4項、第四類の臨時に関する件が1項あり、全部で4類目21項目となっている。第一類では、自身の葬式の実施方法が記された後、自分の法会の代わりに、現在も東洋大学の行事として行われ⦿井上円了筆 ⦿大正7年(1918)1月22日⦿東洋大学井上円了研究センター蔵

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