CATALOG 井上円了
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(漢詩)[印]宣満二公同日終卅五年前業正成哲学専修館始開和田山上聖堂成多年跋渉希全州知君足跡遍全球何事置杯易簀新大正八年己未六月追悼               十余年後憾無窮何図今復得君臥 大息溌然望遠空吾為保証賀光栄爾来離合異其道 依旧神交如弟兄麟祥院外又蓬莱鶏声原上居移気 文質彬々育俊才万巻図書勝百城剛健比他富山寿 何図松下築新堂水郭山村載筆游論理井然斥妖怪 修身講話賛皇猷南米探来及北欧到処多情客雲片 照然使我想回游曽禁烟酒養其身六旬加二棄吾逝 情緒索然難列陳甫水井上円了博士得七絶句                 辱知碩果生南条文雄泣血合十[印](意訳)藤井宣正と清沢満之の二公が六月六日に亡くなり、十数年後の同じ日にまた不幸が繰り返されてしまった、今度は君が亡くなるといったい誰が思っただろうか、遠空をあおぎ溜息をつくのである。 三十五年前に君は東京大学で学業を修め、私はその将来を保証し栄光を祝した、以来付きつ離れつしながらそれぞれの道を歩んできたが、長年の親交は兄弟のようであった。 哲学専修の学校を初めて創立し、麟祥院境内そして駒込蓬莱町、小石川原町鶏声台の校舎で人々を感化して、る。 和田山に完成した哲学堂は、万巻の書物がそろい、確固として長きに渡り存在し続けるのだ、ほかに誰がこのような施設をつくろうと考えようか。 多年を費やし全国各地をめぐった、山村水郷で揮毫し、理路整然と妖怪を斥け、修身講話により皇猷を称えたのである。 君の足跡をたどれば世界中に及び、南米から北欧まで、あらゆる場所を情感ゆたかに写した紀行文は、私を追体験の旅へと誘うのだ。 どうして亡くなってしまったのか、かつて禁煙禁酒でその身を養生した君は、六二歳で私を置いて逝ってしまった、この虚しい気持ちは言葉に言い表しようのないものである。んしつひんぴん文ぶ質彬彬たる俊才を育成したのであ41真宗大谷大学(現大谷大学)学長をつとめる南条文雄(1849-1927)の自詠自書。真宗大谷派出身の学者として井上円了の先輩にあたる南条は、サンスクリット(梵語)研究の第一人者として世界的に知られる。明治9年(1876)、東本願寺の留学生としてイギリスに渡り、オックスフォード大学のマックス·ミュラー(Friedrich Max Müller 1823-1900)のもとで最先端の仏教研究を学んだ南条は、同17年に帰朝した後、東京大谷教校の教授に就任し、翌年から東京大学で梵語学講師もつとめた。在京中、大谷派の国内留学生として東大で学んでいた円了をはじめ、同派の清沢満之(旧姓徳永 1863-1903)、本願寺派の藤井宣正(1859-1903)ら、東京で学ぶ若き仏教者たちと親交を結んだ。本作は、大正8年(1919)6月、客死した円了への追悼作である。七絶七首からなり、第一首目で「宣満二公」(藤井宣正と清沢満之)の命日と同じ6月6日に、今度は円了が亡くなってしまったことを嘆く。続けて、1首ごとにその生涯を振り返りながら功績を称え、最後に数え年62歳で逝ってしまった友への哀惜を詠う。円了に対する南条の友情がこもった一作であり、本書58ページ掲載の「哲学堂八景漢詩」とともに、ふたりの親密な間柄がよくうかがえる。(北田 建二)030宣満二公同日終(追悼甫水井上博士)⦿紙本墨書、掛幅  ⦿南条文雄書  ⦿大正8年(1919)6月⦿東洋大学井上円了研究センター蔵参考写真:左から井上円了、南条文雄、寺田福寿(明治20年代)

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