(宛名)東京市本郷区駒込富士前町五三 井上円了宅御中 (通信文裏面)昨夜営口着、明日大連ニ移リ大連出帆ノ大坂商船ニテ門司ニ着陸時間ノ都合ニテ金子ヲ尋ネ可申候間聞ハ取纏メ金子ノ方ヘ届出可被下候十二三日頃ニ相述可申候 漢口ヨリ支那カバン一箇拙宅ヘ送ルヤウ伊吹③ 営口にて(6月4日付)着荷ノ節仕払可被下候山君ニ頼ミ置候右ハ運賃未払ひニ付(差出人)営口ニテ 井上円 了(宛名欄書込)父上最後の(消印) お便り[判読不能]七日帰京ハ六月四日39②は、21日朝、漢口に無事到着したことを知らせるもので、裏面はエンボス加工された花の図案と「南京孝陵石人」(明孝陵の石人像)の写真が印刷されている。このはがきを送った後、円了は月末までに漢口、北京で講演会を開催するとともに、万里の長城の見物にも出かけるなど、精力的な活動を行った。③は、帰国を目前に控えた6月4日、営口(遼寧省)で記したもので、同月7日に大連から船に乗り門司に戻った後、長女·滋野の嫁ぎ先である九州帝国大学教授·金子恭輔宅に逗留してから、東京に戻ることなどが伝えられている。だが、このはがきを記した翌5日、大連に移動した円了は、講演を行なっている最中に脳溢血で倒れ、6日午前2時40分に息を引き取り、帰らぬ人となった。61年の生涯であった。大正8年(1919)5月から6月にかけて、中国での巡回講演の旅に出ていた井上円了が、東京の家族に宛てた3通のはがきである。追悼文集『井上円了先生』(三輪政一編、東洋大学校友会発行、1919年)によると、5月5日に東京を出立した円了は、翌々日の朝に門司港から船に乗り、同月10日午前、中国·上海に到着した。翌日から4日間にわたり上海、蘇州(江蘇省)を巡回して10席の講演をこなした後、15日からは観光のため、ハードスケジュールの合間を縫うようにして杭州(浙江省)へと向かった。①は、杭州から上海に戻った後、投函した絵はがきである。表面(宛名面)には、5月17日の日付とともに、通信文として前日と前々日に杭州の景勝地、西せいこじっけい湖十景を遊覧したことが記されている。さらに、この日の晩、汽船に乗って長江を遡上し、南京を経て漢口(現湖北省武漢市)へと向かうとある。裏面には、西湖十景のひとつ、「雷らいほうせいきしょう峰夕照」を写した写真が印刷されているが、これは円了から家族への“景色のお裾分け”であろう。(北田 建二)028井上円了 最後の便り(留守家族宛はがき)① 上海にて(5月17日付) 新· ⦿井上円了筆 ⦿大正8年(1919)5月17日・5月21日・6月4日 ⦿東洋大学井上円了研究センター蔵② 漢口にて(5月21日付)
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