38にも伝え残すためである。貴重な芸術作品や重要な功績を大切にし、後世に残すことは広く一般にも理解を得やすい。しかし、特別でないものは、残そうという意思が働かない限り残ることが困難となる。普段何気なく使っている道具や日々の暮らしの様子は、段々と移り変わる時代の中で過去の一部となり、やがて消えていく。いま、生きている私たちが過去のことを考え、知ろうとするとき、手掛かりとなるのは過去から現在まで残されてきたものたちである。そして、いま、生きている私たちが目にすることができるのは、現在そこに存在しているものだけである。その裏には、沢山の残らなかったものがある。私たちが「ないもの」から情報を得ることは難しい。ものは雄弁である。ものに語らせることで、過去を、現在を、これからの時代に伝え残してゆく意味を今一度考えたい。(古山 千尋)027井上円了愛用の品筆、筆立て、筆置き、帽子、眼鏡、旅行かばん――これらはみな井上円了が愛用していた品だとされている。その人が好み、傍らに置き、いつも使っていたものを愛用品と呼ぶ。そうしたものたちからは、素材や構造などの情報のほかにも、記録や文献の中だけでなく、ものにまつわる人間が生きていた姿を感じ取ることができる。この旅行かばんは、大正8年(1919)に円了が中国で行なった生涯最後の講演旅行で携行していたものである。持ち手には南満州鉄道(満鉄)が経営する大和ホテルのタグ、側面には日本郵船の客船·静岡丸のラベルが付けられている。円了は、3度の世界旅行で見識を広めた後、亡くなるまで全国各地を巡って講演を行なった。その傍らにはこのかばんがあったのかもしれない。博物館が担う主な役割のひとつに、資料の保存がある。現在を生きる人々に情報を還元するだけでなく、未来の人々⦿東洋大学井上円了研究センター蔵
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