①伝文殊菩薩像②閻魔像③不動明王像36哲学堂は、明治39年(1906)に哲学館大学(後の東洋大学)学長を退任した井上円了の社会教育活動の拠点となった場所である。その敷地は、もともとは大学の移転予定地であったが、円了が学長を辞める際、大学から個人で買い取り、精神修養を目的とする社会教育の場として整備·拡張を進めていった。園内には、哲学にちなんだ名称をもつ建造物·庭園·モニュメントなどがつくられていき、「七十七場」として一般に公開されたが、それらのなかには、「無尽蔵」や「絶対城」といった、現代でいう博物館·図書館に類する施設も含まれていた。無尽蔵は、海外視察や全国巡回講演(巡講)の際に収集した品物を収蔵·展示する陳列所兼収蔵庫で、いうなれば博物館である。もっとも、資料の体系的な収集·展示が行われていたわけではなく、円了の言葉を借りれば「陳列不整頓玉石同架式」に、種々雑多なものが棚などに置かれていた。それらのなかでも、円了が他の品物とは分けて2階の北側に置き、「哲学堂の国宝的宝物」として珍重したものが、①伝文殊菩薩像、②閻魔像、③不動明王像の3点である。①は寄木造りの仏像で、明治22年、哲学館が麟祥院境内(現東京都文京区湯島)の仮教場から本郷区駒込蓬莱町(現文京区向丘)の新校舎に移転する際、「精神上の師」と仰ぐ勝海舟(1823-1899)から贈られたもの。②は哲学堂の建設工事で腕を振るった建築技師·山尾新三郎、③は日光山輪王寺の前門跡から贈られたものである。円了が、こうした仏像などの収集を行なうようになったのは、明治20年代にさかのぼる。第1回海外視察でパリの「仏像博物館」(現ギメ東洋美術館)などを見学した円了は、帰朝した翌年の明治23年、東洋学の振興のため神仏の古像などを集めて哲学館に「古像陳列所」を設置する計画を発表しており、①はその陳列所に置くコレクション第1号であった(『天則』第1編第12号、哲学書院、1890年、広告ページ、および「哲学館移転式始末」、『哲学館講義録』第2年級第1期33号号外、1889年、p.15)。残念ながら、哲学館ではこの陳列所の構想は実現せず、哲学堂において収蔵·展示品の対象を広げ実現したのであるが、この「国宝的宝物」を見ると、コレクターである円了の関心の中心にあったのは、こうした仏の像であったと考えられる。(北田 建二)025哲学堂の国宝的宝物(伝文殊菩薩像、閻魔像、不動明王像)⦿木造①②、絹本着色·掛幅③ ⦿東洋大学井上円了研究センター蔵①、山﨑記念中野区立歴史民俗資料館蔵② ③
元のページ ../index.html#36