CATALOG 井上円了
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33作者の間宮章堂は明治7年(1874)、埼玉県生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)の助教授を務めた寺崎広業(1866-1919)に師事し創作活動に入ったが、作品はさほど知られていない。子育て幽霊の話は、落語の「飴屋幽霊」などで広く知られているが、宋代の『旃陀越国王経』や西晋の『諸徳福田経』にルーツを求めることができるとされ、親への報恩を説くものとして僧侶の説法の題材に取り上げられたらしい。そのためか、遺児は高僧になったとされる結末が多い。数多描かれた幽霊画にあっても、子を抱く幽霊の図はさほど多くなく、幕末から明治初期に活躍した安田米斎(1848-1888)の作品が知られている。本作のような悲壮感を持って子を抱く女性の姿は鳥山石燕(1712-1788)の『画図百鬼夜行』(1776年刊)に見られる「姑獲鳥」が想起されるが、先行する佐脇嵩之(1707-1772)の『百怪図巻』(1737年刊)に「うぶめ」が掲出されており、同書は狩野元信(1476-1559)が描いたとされる写本を模写したものとされていることから、「血まみれで子を抱く女性」図の祖形は16世紀前半には存在した可能性も考えられる。もっとも、「産女」の記述は平安時代に成立したとされる『今昔物語集』に平季武が産女から赤子を受け取るエピソードが掲出されており、そのイメージは中世以前に定着していたと考えられる。「うぶめ」に宛てられる「姑獲鳥」の表記は、西晋の『玄中記』や明代の『本草綱目』に記された中国の伝承上の妖鳥に由来する。唐の『酉陽雑俎』や北宋の『太平広記』では「夜行遊女」とあり、夜間に飛来し幼児をさらう鬼神の一種とされ、『和漢三才図会』(1712年刊)にも同様の記述がある。この「姑獲鳥」が、日本の「産女」と同一視され、混用されたといわれているが、円了先生は『妖怪学講義』合本第6冊において「妄説」とされ、「説明を要するまでにあらず」と記されている(『井上円了 妖怪学全集』第3巻、柏書房、1999年、p.626)。先生は「うぶめ」を「怪物」として分類されており、江戸期のいわゆる妖怪図鑑群と同様、「幽霊」とは別物としている(同、p.622)。このことを踏まえて本作をみると、江戸時代以来の伝統的な「足のない幽霊」でなく、「足のある女性」であることから、本作も「うぶめ」を描いたものとすることもできよう。(天ケ嶋 岳)022抱子幽霊図⦿紙本着色、掛幅 ⦿間宮章堂(孝太郎)画  ⦿年代不詳(明治末か) ⦿東洋大学井上円了研究センター蔵

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