CATALOG 井上円了
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32することを誓ったゆえに、自ら「非僧非俗」と号するようになったと述べている(井上円了「宗祖大師の御遠忌に際して平素の所信を自白す」、『宗報』明治44年6月号)。真宗寺院の長男として生まれ、東本願寺の留学生として東大で学んだ円了が宗門から離れるには相当の決意が必要であったはずだが、しかしそこには「宗祖」親鸞と同じような道を歩んでいるのだという自負があったのではないだろうか。そしておそらく、修身教会運動を中心に独自の民衆教育活動に取り組んでいた晩年の円了は、その思いを強くしていたと考えられる。円了にとって妖怪学は、人々を真理へと導くための「方便」であった。当時多くの人々を惑わせたり、楽しませていた妖怪は、民衆に哲学·宗教の教えを示すための格好の題材でもあったという。そのように考えると、「妖怪道人」という名乗りにも、やはり民衆と共に生きた親鸞のイメージが(ユーモアも交えつつ)重ね合わされているのかもしれない。(長谷川 琢哉)021印章側面に「明治43年冬」と刻まれた「無官無位非僧非俗 妖怪道人円了」という落款印は、哲学館の経営を退き、民衆教育に奔走していたころの井上円了が好んで用いたものである。そもそも円了はこの名乗りに、いかなる意味を込めていたのだろうか。このことを考える上で誰よりも無視することができないのが、親鸞(1173-1263)である。よく知られているように親鸞は、「承元の法難」によって越後に流罪となり、国家によって正式に認められた官位としての僧侶の位を失った。しかし同時に、越後の民衆たちと暮らす中で、より広く人々に仏法を伝えるという使命を見出し、自身を「僧に非ず俗に非ず(非僧非俗)」と称するようになった。円了が用いたこの落款印は、まずはこうした親鸞の歩みを明確に意識したものと考えてよいだろう。実際円了は明治44年(1911)におこなったある講演で、大学卒業後は宗門を離れて「俗人」となり、その上で仏教の「頽勢を挽回」⦿石 ⦿明治43年(1910)⦿東洋大学井上円了研究センター蔵原寸大

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