28これによって、大学に円了が全財産を寄付して、財団法人「東洋大学」が設立された。円了による個人経営から法人という集団による経営に転換され、大学名も東洋大学という新しい校名となって、再スタートすることとなった。円了は哲学館事件の前後から、哲学館は円了や井上家の私物ではないという批難や、哲学館大学は仏教の一宗一派の学校なのだという誤解に悩まされてきた。そのため、明治36年11月15日に著書の『円了漫録』に公開遺言状を書いて、「学校は余か社会国家に対する事業として着手せしものなれは、井上家の子孫をして之を相続せしめ、又之に関係せしむる道理なく又必要なし」と宣言していたが、円了はこの契約書によってそれを実現したことになる。「学校は社会の共有物である」という円了の理念は、現代も継承されている。(三浦 節夫)018契約書(井上円了、前田慧雲、哲学館大学学長事務引継)この契約書は、哲学館を創立した井上円了が哲学館大学から退隠するに際して、現代の大学のあり方につながる条件を定めた歴史的文書である。明治35年(1902)12月13日に発生した文部省による哲学館の中等教員無試験検定校の認可取り消しを発端とし、その後に明治時代の2大思想問題の一つにあげられる、いわゆる「哲学館事件」という社会問題となり、その後に大学内部の対立を引き起こし、最終的に円了は「脳患ノ為ニ静養ヲ要スル」事態となり退隠を決意した。この文書のポイントは、3点にしぼられる。わざわざ「前田慧雲学長トナルニ付左ノ方針ヲ取ルコトヲ約定ス」を前文で断り書きをして、円了は以下のことを列記した。①本学創立の主旨たる東洋哲学の振興普及を図ること。②財団法人とすること。③将来の学長について、本学出身者で抜群のものがあればこれを学長とし、そうでなければ講師の中から学長を選ぶこと。⦿井上円了・前田慧雲作成 ⦿明治38年(1905)12月28日 ⦿東洋大学井上円了研究センター蔵
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