25らの一行は、この後王舎城跡に赴き霊鷲山の同定を行う。他方、円了と慧海は、ベナレス(ワーラースィー)に向かい、翌日ヘンリー·オルコット(Henry Steel Olcott 1832-1907)、アニー·ベサント(Annie Wood Besant 1847-1933)といった神智学協会のメンバーを訪ね、講演会に出席した。この講演会では、慧海もチベットでの体験を話している。なお、オルコットが明治22年2月から4月に来日した際の通訳のなかに哲学館講師の徳永満之(後の清沢満之 1863-1903)がおり、伝通院、浅草寺で講演を通訳している。ベナレス対岸のムガルサライ駅でデリーに向かう慧海と別れ、28日から滞在したボンベイ(ムンバイ)では、三井物産ボンベイ支店長·間島与喜(1859-1944)のところに宿泊した。この間島は、越後国頚城郡(現新潟県妙高市)の出身で、新潟で英語を学習し、商法講習所(現一橋大学)を卒業している。インドにやって来た仏教研究者の世話を多くしており、大宮は終生大恩人として尊んだ。そのほか上面には29日に訪れた沈黙の塔で見聞したパールシーの習俗が記されている。(出野 尚紀)015海外視察ノートこれは、井上円了が明治35年(1902)から翌年にかけての第2回世界周遊旅行の記録である。帳面を90度時計回しにして、上面を随想やメモ、下面をその日の出来事と使い分けしている。このインドの旅では、カルカッタ(コルカタ)に留学していた教え子の大宮孝潤(1872-1949)の下宿に訪れたときに、仏籍を求めてチベットに潜入していたがインドに出国したところの、同じく教え子である河口慧海(1866-1945)と偶然出会った。この出会いは、円了に大きな感興を起こしたようで、それを記念して撮った写真がこの旅の紀行録『西航日録』の口絵として使われているほどである。逆に慧海以外の人たちとの多くの出会いは、あらかじめ想定した範囲内であったことがうかがえる。例えば、ダージリンにかつて日本に亡命していた康有為(1858-1927)を訪ねたことがあげられる。掲出した上面にはそのときに見たチベット人女性の装飾品に着目して記しているが、この風俗は円了の意に染まなかったことが『日録』に見える。また、ともに大菩提寺を参拝し、12月26日にバンキポールで別れた大谷光瑞(1876-1948)や藤井宣正(1859-1903)⦿井上円了筆 ⦿明治35年(1902)11月〜⦿東洋大学井上円了研究センター蔵
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