東洋大学史ブックレット13
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東洋大学も文系の単科大学から、文系と理工系をかねそなえた総合大学へと転換していくために、昭和三六年から川越校地に工学部を開設し、新たな出発をしました。大学紛争と東洋大学。急激な学生数の増加は、やがて東洋大学にもおよび、狭隘な白山校地の過密化をもたらし、「すし詰め教室」と「マスプロ教育」をまねきました。全国的な大学紛争の流れのなかで、東洋大学の紛争は昭和四二年から五二年までのおよそ一〇年間、さまざまな問題をとりあげながらくりかえされました。大学改革と東洋大学。紛争末期から大学改革のとりくみが始まり、白山校地の 四  三 過密状態を解消するために、昭和五三年度に朝霞校地で白山四学部一年次の授業を、五四年度に白山四学部一・二年次の授業を、六一年度に文学部をくわえた白山五学部一・二年次の授業を実施しました。平成四年からは白山校地の再開発を始め、九年に板倉校地を開設して二学部をおき、四(白山・川越・朝霞・板倉)校地における研究・教育の施設と体制を拡充し、名実ともに総合大学をめざしました。東洋大学の歴史 ―戦後編Ⅰ―42

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