ケードを撤去し、五〇日間つづいた封鎖を解除しました。これに対して全学共闘会議の学生は、校舎の内側からバリケードを築き、未明に角材などで武装した他大学の支援部隊が、学内におしよせて合流しました。一般学生・教職員・卒業生が大学正門に待機し、武装学生を説得しましたが、武装学生が投石と角材による殴打をくりかえし、学生に約三〇余名の負傷者がでました。学長は機動隊の導入を要請し、武装学生は機動隊の出動の前に退去しました。ところが、機動隊がひきあげたあけ方六時ごろ、武装学生は外部の学生とともに大学構内にはいり、清掃中の学生に暴行をくわえ、ふたたびバリケードを築きました。しかし、登校してきた学生たちにより、夜までにバリケードは撤去されました。このようにして紛争は、多数の外部者のたちいりと激しい暴力による破壊とで、深刻な事態におちいりました。四四年一月に学長は、学内を封鎖する学生にくりかえし退去を命じ、二月に封鎖を解除しました。八月に紛争校に対して政府による強権発動を認める「大学立法」が成立すると、そ東洋大学の歴史 ―戦後編Ⅰ― 28
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