立大学がうけ皿となってうけいれることを求められたこと、によるものでした。東洋大学においては脆弱な財政基盤を支えるために、学生定員枠をはるかにこえる新入生をうけいれたために、過密な白山校舎の大教室に多数の学生を収容するという、いわゆる「すし詰め教室」と「マスプロ教育」をまねきました。白山校舎で「すし詰め教室」と「マスプロ教育」が加速したために、学生たちは例年開催する白山祭の統一テーマとして、三八年度に「人間を返せ」を、三九年度に「くたばれ、マスプロ教育」をかかげました。このような動きは、四〇年二月の学年末試験における試験教室の混乱として表面化し、四一年九月の期末試験における混乱が、学生自治会による抗議集会へと発展しました。狭隘な白山校地の急激な学生増加はさらに深刻となり、その打開策として川越校舎の利用と新たな校地取得が緊急の課題となり、やがてこれが大学紛争をまねく大きな要因となりました。 二 総合大学と東洋大学(昭和三二年~四一年)19
元のページ ../index.html#23