この間の東洋大学の運営についてみると、戦後における混乱のなかで、二四年一〇月に出身者で千葉新聞社社長小林啓善が第一七代学長に就任し、在家仏教(法華宗)団体大だ日に本ぽ獅し子し吼く会か(獅子吼会と略称)の創立者大お塚つ日に現げに東洋大学の窮状を訴え、協力を依頼して多額の資金援助をうけ、一一月に大塚日現を名誉学長にしました。一二月に私立学校法が公布され、財団法人東洋大学は新たに評議員会と評議員をおきました。戦前から存続していた財団法人東洋大学は、東洋大学と京北中学校・京北実業学校から構成されていましたが、二六年三月に財団法人から学校法人への移行にともない、東洋大学と京北中学校・京北実業学校(京北学園)とに分離しました。このとき学校法人東洋大学は新たな寄附行為をさだめ、二七年三月に法人代表として理事長と評議員を選出し、初代理事長に獅子吼会会長大塚日現の娘婿・大塚又七が就任しました。二九年三月に大塚理事長の公金不正流用が発覚し、九月に大塚理事長が辞任しました。三〇年三月に大学は、新理事会の構成をめぐり獅子吼会と対立しました。三一年二月つんいいちんおか 東洋大学の歴史 ―戦後編Ⅰ―12
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