ようんがせつだん遣けい外使し節団をおくり、欧米各国のすすんだ文明を視察させ、わが国の近代化をおしす年六月に、ペリーが開国を求めて浦賀に来航したために、わが国の鎖国政策は瓦が解かすることになりました。慶応三(一八六七)年一〇月に第一五代将軍徳とく川がわ慶よぶ喜が、朝廷に政権を返還し(大た政せ奉ほ還か)、一二月に王政復古の大号令が発せられ、天皇をいただく新政権が成立し、一八六八年九月に元号が「明治」とあらためられ、一世一元の制がさだめられます(明治天皇即位)。明治元年一〇月に天皇が、二年三月に新政府が東京にうつり(東と京き遷せ都と)、六月に諸大名に命じて版はん籍せき奉ほう還かんをおこない、四年七月に廃は藩は置ち県けをせまり(幕藩体制の崩ほ壊か)、全国に府・県をおき中央集権体制をととのえます。この年一〇月に明治政府は、不平等条約改正の予備交渉を目的に、一〇〇名近くからなる岩いら倉すめていきます。また明治政府は元年三月に神仏分離令を発布し、廃はい仏ぶ毀き釈しくの運動をひろめ、三年一月に大だ教き宣せ布ぷの詔りを発し、神道の国教化をめざしながら、翌年四月にはそれをみなおします。近代国家の体制をととのえようとする明治政府は、欧米にようんいつやいうんうんいんんういいい4みことのしのわく東洋大学の歴史 ―戦前編―
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